下野薬師寺跡(国指定史跡)
下野薬師寺とは
下野薬師寺と下毛野朝臣古麻呂
下野薬師寺は、7世紀末、中央官僚として都で活躍した下毛野朝臣古麻呂(しもつけのあそんこまろ)によって創建されたと考えられています。下毛野朝臣古麻呂は、天武天皇・持統天皇らに仕え、また藤原不比等からの信任も厚く、大宝律令選定の重要なメンバーでした。古麻呂のそのような中央政権とのつながりの深さは、下野薬師寺の重要性を高めることとなります。
古麻呂は、西暦709年(和銅2年)に、式部卿正四位下(しきぶきょう・しょうしいげ)という、現在でいえば国務大臣級という高い地位で亡くなりました。その翌年、西暦710年(和銅3年)に、都は藤原京から奈良の平城京へと移り、律令国家の制定とともに、国を仏教の力で治める「鎮護国家」の確立が推し進められました。それにともない、都はもちろんのこと、地方でも寺院が整備されていきました。下野薬師寺も、下毛野朝臣古麻呂の功労から国によって整備され、東国における仏教施策の一翼を担う、重要な寺院として位置づけられるようになりました。
下野薬師寺と三戒壇
仏教が隆盛するのに伴い、様々な問題も現れ始めます。まず、僧侶としての戒律を守る者が少なくなってきたこと、そして、生活の苦しい多くの庶民が、税を免れるために、勝手に出家し僧を名乗るようになってきたことです。これに困った中央政府は、正式に僧侶としての資格を与える“受戒”を行える僧を、唐から招請することを決め、それに応え、鑑真和上が多くの困難を乗り越えて来日。以来、僧侶として認められるためには、“受戒”の儀式を受けなければならない決まりとなりました。そして、“受戒”の儀式を行える場所=「戒壇」(かいだん)を持つ寺院が、畿内の東大寺、九州諸国の筑紫観世音寺、そして東国の下野薬師寺の3カ所と定められました。これらは、総称して「三戒壇(さんかいだん)」と呼ばれました。下野薬師寺は、東海道の足柄峠、東山道の碓氷峠より関東・東北の僧に戒を授けることのできる、東国仏教の中心的寺院となり、ますます隆盛を極めることとなります。
下野薬師寺の衰退・復興・そしてその後
しかしながら、下野薬師寺は、9世紀中頃に大火災に見舞われ、伽藍の中心部が焼失してしまいました。また、国家仏教の衰退とともに、天台宗など新興宗派が興り、比叡山などに戒壇を置き、それぞれが独自に戒を授けられるようになりました。それに伴い、これまでの「三戒壇」の地位もゆらぎ、次第にその役目が失われていきました。その後、鎌倉時代に慈猛上人(じみょうしょうにん)が復興しました。
14世紀南北朝時代には、足利尊氏が、戦死者を弔うために全国に安国寺の建立を発願し、そのとき下野薬師寺が、「安国寺」と改称されたと伝えられています。しかしながら戦国動乱の時代、1570年11月下野薬師寺は、小田原北条氏と結城多賀谷氏との戦いの中で焼け落ちたと、『薬師寺縁起』が伝えています。その時、寺の貴重な記録も失われました。
大正10年(1921)3月3日に、下野薬師寺跡は国の史跡に指定されました。同時に指定されたのは、足利学校跡、下野国分寺跡の3か所で、栃木県で最初の国指定史跡の一つになります。
下野薬師寺の規模
昭和41年に栃木県教育委員会による発掘調査が開始され、その後、南河内町、下野市教育委員会により継続して調査が実施されてきました。
これまでの発掘調査により、外郭施設(板塀)の規模が東西約250m南北約350m、瓦葺回廊の規模が東西約110m、南北約102mにも及ぶことが判明しています。従来の調査では、回廊の中心部に金堂が存在すると考えられていましたが、最近の調査で創建当初の塔であることが判明しました。また、回廊の東にある塔は、創建の塔が焼失しために、この場所に9世紀代に再建されたものであることが明らかになっています。この他、回廊内には、規模の異なる基壇建物が存在することが明らかになりました。これにより、下野薬師寺の伽藍配置が一塔三堂形式である可能性も考えられます。
強風時や荒天時に史跡を見学する場合
枯枝が落下して大変危険なので、大きな木には近づかないでください。